私は、今も立坑が残る志免炭坑(福岡県糟屋郡)から
南へ5km程の所に在った勝田炭坑の炭住長屋で
1961年(昭和36年)夏、産婆さんに取り上げられました。
翌1962年1月、炭塵爆発事故で母方の祖父が亡くなります。
3交代で別勤務だった父は無事でした。
その後2年と持たず勝田炭坑は閉山に追い込まれます。
三菱系列だったので三菱系の企業へ斡旋があったそうです。
父は三菱高島炭鉱端島坑(軍艦島)に採炭夫として入坑します。
まず単身軍艦島に向かい、後に母と私を呼びよせました。
ですが最初に母と私が入居したのは
軍艦島ではなく高島の日吉ヶ岡特一丁目という地区だったようです。
おそらく当初父は軍艦島の単身者寮に入ったのでしょう。
母と私は家族向け部屋の空きが出るまでの待機として
一旦高島に居を取ったのだと想像します。
端島で入居したのは30号棟1階だったそうです。
30号棟は、上陸観光の目玉になっている口型の建物で
大正5年竣工、住宅としては国内最古の7階建RC建造物です。
入口が1階は2か所あったそうで
母の説明ではどの部屋だったかは判然としません。
30号棟の階段は口型中庭状の面にあり
各部屋の玄関も中庭側にありました。
私のわずかな記憶の中で
小さく四角に切り取られた空を見上げていた事があります。
子供の頃なんども夢にでてきた風景で、現実との境が曖昧ですが
30号棟の中庭から見上げた景色だったのでしょう。
↑軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート
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