前回アップした文政9年(1826年)の高島全景を、北が上になるように回転してみました。
18世紀末の高島は年産約3.800トンを記録しており、すでに大炭鉱と注目されていたようです。
文化15年(1818年)炭坑数6坑、深堀藩士2人ずつ勤務と記録されています。
その8年後の地図ですね。
鉱山記号が記載されていれば、グッジョブと褒めてあげるのにぃ~
ところどころ文字が記されているのですが、見づらいので拡大してみます。
廣磯(広磯)、金堀ノ鼻、堀〇〇〇〇〇、上二子島、岩焼、と読み取れます。
広磯は西浜グランドあたりでしょう。蛎瀬街道直下が海岸線だと思われます。
この広磯、安政2年(1855年)鍋島藩の出炭量と坑夫数調査(推計)では
広磯坑14.208トン230人、百摩崎坑8.640トン120人、中山坑2.148トン50人の記載があり
広磯坑は当時最大規模の炭坑だったようです。
同調査で百摩崎は地下百余間の海底、24段の水車を使い排水と記されています。
また安政5年(1858年)に高島炭坑を見学したオランダ人によれば
ある坑は坑口から25分位下って歩いていったところに切羽があり
湧水は手と足による水車で排水し手入れが良く行き届いていた。
しかし設備の不備と人力を無駄に消費している点など、大いに改良の余地がある。
彼は「日本人は,同事業に対して注意すべき安全装置についてすでにひと通りの観念をもっている」
と評しています。
グラバーによる近代化(蒸気機関の導入)以前より
金属鉱山技術を取り入れ、当時最も高い採炭技術を有していたと考えられます。
明治2年(1869年)鍋島藩による閉山命令対象となった、
深堀藩に周辺諸島開発許可と開坑資金、民営炭坑8坑の坑主に補償金が与えられた。
江戸から明治に変わる時、高島には大小11、又はそれ以上の炭坑が存在していたのですね。
地図に戻りましょう。
金堀ノ鼻は、新和寮が建っていた場所になると考えていますが如何でしょう?
赤山と称することもあったような記憶があるのですが・・・ちがう場所だったでしょうか?
岩焼の文字がある場所は、旧役場あたりでしょうか?
蛎瀬周辺です。海岸の文字は判別し辛いですが、番所ノ〇越に見えます。
御備石火矢、番所、陣ヤ跡、陣ヤ用水、薬入〇ニツヤ子〇と読めます。
海岸の文字のあたりが蛎瀬坑でしょう。
番所の建物の絵らしき所は、蛎瀬詰所があった辺りになると思いますが・・・
陣ヤ跡、陣ヤ用水は、心臓破りの坂に沿った場所ではないでしょうか?
鍋島孫六御自分備石火矢、納ヤ、船上リ場、小島アミホシ場、切通シの文字が見て取れます。
蛎瀬付近の拡大図にも御備石火矢表記がありました。
鍋島家の備石火矢? なに? 備石火矢って?
ググっても出てきません。
なんとなぁ~~くですが、これで↓
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0801_0850/0804.htm
理解出来たような気がしています。
場所は本町Fアパートあたりでしょうか?
納ヤは町長住宅あたりになると思います。
小島は完全に分離していますね。干潮時繋がったので切通シと書かれているのでしょう。
船上リ場は、言うまでもなく本町えびすやの前の浜ですね。
鷹島、鰹ノ鼻、一ッ石、諸色ヤ、遠見と読めます。
高島表記ではなく鷹島ですね。
鰹ノ鼻は日吉ヶ丘の岬と言っていました。教員住宅の崖下です。今は外周道路が上を通っています。
一ッ石は富川運送あたりでしょうか? コンニャク煉瓦の擁壁の前だと思うのですが・・・
諸色ヤとは? ショシキと読むようです。深堀町人が営んでいた萬屋らしいです。今で言うならコンビニ?
遠見は権現山山頂でしょうね。
一枚の古地図から掘り起こしてみるのも面白いものです。
いずれも私の独断による見解です。
違った見方や更なる見解がありましたら、是非お寄せ下さい。
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