文政9年(1826年)の古地図と埋め立て図を並べてみると解りやすいですね。
埋立て図は、閉山時かそれ以前だと思います。
古地図の二子島が近く小さく描かれているのはご愛嬌(笑)
無人の島はさほど重要ではなかったのでしょう。
明治時代に、金堀~百万が広範囲にわたって埋立てられています。
最も広いところは100m以上あるでしょうか?
上二子島と下二子島も繋げられていますね。
二子島から光町・尾浜・百万を眺む
明治末期までは、土のうの上を歩いて渡り満潮の時には渡れなかった。
と説明文が添えられています。
大正時代は二子島が拡張されています。
小学校(現海水浴場)は全てが埋立地だったことが分かります。
この図面では、大正9年築堤連絡とありますが
こちらの写真には、大正14年高島との間に築堤が造られたとあります。
私たちが知っている島姿は、昭和になって築かれたものだとよく分かります。
築堤後、徐々に埋立てられていく姿を捉えた3枚の写真があります
大正15年頃
昭和4年頃
昭和8年頃
最終的には島を2倍近い広さに拡げたことが分かります。
二子島から光町、尾浜、百万を眺む1枚の左上手側に見えるのは、
三菱倶楽部でしょうか?
三菱の幹部職員の宴会や来客用の宿泊施設に使われていた施設が
尾浜の山の方にありましたが・・・。
二枚目
左手中程にモダンな3階建てに見える建物がありますが、何に使われていたのでしょう。
そのような洋式の建造物もグラバーさんの影響だったのでしょうか?
子供心に、昭和の高島はモダンな建物があるなぁと何気に思っていましたが、
当時の学校の先生方は高島の建造物やグラバーさんについてお話ししてくださる方は、あまりいらっしゃらなかったように思います。
こうして今、このブログに出会い、昔の高島、その島の埋め立てによる島の拡大の歴史を知ることができ感謝です。
本当にタイムスリップできるものなら土嚢の橋を渡ってみたい。
今回もすばらしい情報ありがとうございました。
マロンさん、コメントありがとうございます。
位置も仲山のように感じます、シルエットからも職員クラブだと私も思います。
高島観光ナビによると、明治34年(1901年)5月、仲山に建設された高島炭鉱職員クラブとあります。
パッと見3階建に見えますね。コメント見て再度目を凝らしたのですが
よく見ると建物の足元すぐまで海水面が来ているように見えませんか?
上物が3階だとすると、下に2階分ほどの空間があるように見えます。支柱らしきものも。
翌年と思われる3枚目の写真には、手前に出来た長屋で1階部分は確認できませんが
3階建と仰られた1階床が地表レベルのように感じます。
ん~~~最近耳たこな話を思い浮かべますが、見立てが正確ならばこちらは正しく作られたようですね(笑)
5枚目の写真で同じような様式の建物が、増えているのが見て取れます。
当時開坑されていた二子斜坑は下二子に在り、炭鉱施設は下二子に集中していたのではと想像します。
想像が正しければ、上二子は居住区で集合住宅だと思うのですが如何でしょう?