高島炭鉱史によると、尾浜横坑(旧第二坑)となっています。
北渓井坑廃坑後、南洋井坑を第一坑、尾浜斜坑を第二坑としました。
後に仲山坑と百間崎坑を第一坑、第二坑としたため
南洋井坑が旧第一坑、尾浜斜坑が旧第二坑となりました。
尾浜斜坑は明治7年8月24日開坑、明治23年12月27日廃坑。
開削時期が記されていないということは、以前から出炭されていて
蒸気機関導入後の出炭開始が8月24日だったと解釈していいかと考えています。
高島町の足跡より
護岸工事(明治20年頃)
写真中央は仲山付近でしょうか?
中腹やや左上に神社らしき建物が見えます。
海岸線に沿って、木組みの足場らしい構造物が長く伸びています。
右端に高い煙突が2本写っています。尾浜坑、南洋井坑の煙突だと思われます。
高島町政三十年の歩み
尾浜坑からの石炭積み出し風景
沖に上二子島、その向こうに下二子島。
海岸線には護岸の続きが、金堀方向にうっすらと見えます。
仲山より先は、これから埋め立てるような感じに見えますね。
だとすると、前の写真と同じ時期に撮影されたと考えられます。
放射状に施設された炭車軌道が規模の大きさを物語っています。
こちらへ向かって途中で途切れている軌道は、ボタで高さを確保しながら
レールを伸ばしていこうとしているのでしょうか?
その先は、新たな積み出し桟橋か、埋め立ての為のボタ搬出路線かもしれませんね。
途切れている軌道の先端に立てられているのは電柱でしょうか?
上にあるのは「がいし」のようです。そこから手前の家屋に線が引き込まれているように見えます。
すでに発電施設があり、電化が進められていたのでしょうか?
画面中央やや右にも積み出し桟橋が見えます。
その手前を起点に放射状に施設された炭車軌道があります。
どのような流れで作業が進められていたのか、とても興味が湧きます。
尾浜坑坑口跡の案内板
植物が生い茂り遺構は確認できません。
冬か春先に行けば、見えるかもしれませんね。
蜘蛛はすみません(笑)
追い払うのは気が引けました。
南洋井坑跡は、島の宿五平太の裏あたりなのですね。
遠い昔の記憶にその煉瓦の思い出があります。
今の老人ホームの裏あたりか、行政センター裏あたりか・・・と記憶が曖昧でした。
もしかしたら、仲山坑跡、尾浜斜坑跡を幼いときにみたのかも知れません。
富川バス前の蒟蒻煉瓦の情景は、私の記憶のアルバムの1枚です。
子供心になぜ煉瓦を横に倒して重ねているのか不思議でした。
父に尋ねたところ、その方が煉瓦の壁が丈夫にできるからだと、
そして、煉瓦の枚数も多く必要とするので費用もかかる組み方なのだと・・・。
私は、積み木を使って確かめたことがあるのですよ(笑)
今思えば、本当に変わった子でした。
このように、高島にはいくつもの立て坑があったことを改めて知ることができ、
本当にタイムスリップしたくなりました。
明治の時代に。
私の祖母は高島の明治の生まれの高島育ちでした。
もっともっと、祖母の話を聴きたかった。
大切な思い出を改めて回想することができました。
ありがとうございます。
マロンさん、コメントありがとうございます。
今残っているのは南洋井坑排気口跡だけですね。
おそらく本坑(運搬坑)や排水坑は「島の宿五平太」の真下に在ると思います。
行政センターあたりまで南洋井坑や尾浜坑の関連施設が拡がっていたと想像します。
尾浜坑からの石炭積み出し風景の写真は、行政センター上の山道からの撮影だと思いませんか?
仲山坑と老人ホーム。そのとおりです。次回のテーマです。
御婆様が明治の生まれの高島育ちでしたか?
マロンさんは生粋の高島人ですね!
御存命であれば、お伺いしたい事がたくさんありました。
幼い頃にもっと島の歴史に興味を持っていたらと後悔してしまいます。