坑口の話が続いているので、整理してみましょう。
以前UPした埋立図と坑口位置図を並べてみました。
坑口配置図はすみません。
首を90度傾けてご覧ください(笑)
〇と□は立坑で、立坑形状を表わしています。
凸に似た記号は斜坑と、その掘削方向を表しています。
坑口は当然のことながら埋立前のもともとの陸地です。
南洋井坑、尾浜坑、中山坑は、非常に隣接していたんですね。
遺構が残されているのは、北渓井坑、南洋井坑、尾浜坑、高島新坑(仲山新坑)、二子立坑です。
仲山新抗 昭和10年11月調査開始、11年9月工事着工、12年出炭開始、20年8月廃坑
仲山新坑坑口跡 老人ホーム裏にあります。
高島半世紀の記憶 第24回国体「炬火」リレー(昭和44年10月)
同じ写真が 高島町政三十年の歩み ではオリンピック聖火(昭和43年6月)
どちらが正しいのか(笑)は、さておいて
先頭ランナー右の石垣の上が、現老人ホームです。
後ろのCアパートには、現在2階建ての町営住宅が建っています。
画面中央の2階が大きな建屋(子供の頃「仮分数」と呼んでいました)
この2階部分に巻揚機があったと聞いたことがあります。
となると山側の岩盤に坑口があったはずなのですが、御存知の方はいらっしゃいませんか?
百間崎坑は高島炭鉱史や炭坑誌(長崎県石炭史年表)と高島町発行誌の年表に出て来るくらいで
正確な場所どころか存在そのものすら、ほとんど知られていません。
この坑口配置図で推測すると、百万1号から小学校裏門までの間のようです。
裏門から日吉ヶ丘に向かう坂の下に「ポンプ小屋」と呼ばれていた施設がありました。
もしかすると百間崎坑に付随する施設だったのでしょうか?
6年程前にネットサーフィンしていて取り込んだ「ポンプ小屋」画像です。
画像の使用許可を貰おうとHPを捜しましたが、見つけられませんでした。
勝手な使用をお許しください。
ポンプ小屋の写真記憶にあります。
今で言うなら、海水浴場からつり公園入り口に向かって行くあたりですね。
仮分数と呼ばれていた建物の跡は今はATMのみとなった親和銀行から、
派出所あたりですね。
私たちのこどものころは、仮分数の一階は仲山詰所では無かったでしょうか。
巻き上げ機のことはわかりませんが、炭坑施設ではありました。
その、一段上の土地の奥左側に確か旅館のような建物があり、少し平地になっていました。
階段を上がってみたかったけど、仕事場のような気がして、階段を上がる勇気はありませんでしたね。
今思えば上がってみればよかったと思いますが・・・。
マロンさん、コメントありがとうございます。
私達が小学生の頃は、小屋がありましたよね。
当時、中は見たことがありませんでした。
この写真を見て、なるほどポンプがあったんだと納得しました。
仮分数の上には旅館のような建物ですか?
知りませんでした。
だとすると、巻揚機の話は勘違いかもしれません。
いや、廃坑が終戦の時ですから、その後建てられた可能性もありますね~
当時のことを憶えておられるお年寄りも、まだ島にはいらっしゃるでしょう。
年配の方のお話を伺いたいですね。