蛎瀬第一立坑(162mのち205m) 明治34年3月開削、明治35年12月出炭開始、大正12年8月閉山

蛎瀬第二立坑(187m) 明治35年4月開削、明治36年7月出炭開始、大正12年8月閉山

 

第二立坑出炭開始から僅か8ヶ月、高島炭鉱史上最悪の炭塵爆発事故が発生します。

明治39年3月28日 9:30大音響とともにガス爆発、通風機破損、第一第二坑口より白焔噴出。

12:00鎮火確認、14:00入坑捜索着手。原因不明。

死者307名 重軽傷者数十名

5月7日付 死体発見210余名、原因未ダ不明

 

その後、明治40年1月の復旧工事開始の間に報告は上がっていません。

記録を見る限り100名近くの遺体が上っていません。炭塵爆発の恐ろしいところです。

 

私は母方の祖父を勝田炭鉱炭塵爆発事故で亡くしています。

事故を知る人の口は重く、多くを語りたがりません。

幸いにもと言って良いのかどうかは判りませんが、祖父の遺体の損傷は激しくなかったと聞いています。

 

6月26日には落盤事故報告が上っていますので、それ以前に採炭再開されていたようです。

 

 

 

高島町政三十年の歩みには明治40年頃とあり

同じ写真で高島半世紀の記憶には大正2年頃と説明されています。

 

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次の写真は高島町の足跡からで大正2年頃と説明されています。

 

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櫓の足元に歩道橋のような施設が設置され、巻揚機建屋の向こうに何かしら建築中のものが見えます。

2枚目の写真が後年のものですね。

大正2年頃という説明が正しければ、1枚目の写真は明治40年頃として良さそうです。

前回のランナーといい、高島町政三十年の歩みと高島半世紀の記憶での説明の食い違いは

なんだかクスッと笑わせてくれます。

 

 

 

蛎瀬第一立坑は昭和14年12月掘下げ開始、17年4月立坑掘削完了(375m)、18年2月坑底坑道貫通

25年入昇坑開始、昭和61年11月の閉山まで運用されます。

昭和の蛎瀬立坑は人員の昇降のみで出炭は行われていません。

坑道貫通とは、二子坑との連絡坑道と解釈していいかと思います。

 

高島町政三十年の歩み(昭和53年10月25日発行)には、現在の蛎瀬立坑とあります。

 

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私が島を去った直後の写真でしょう。

なにもかもが懐かしいです。

写真上部中央の送風機が、一年中低く唸っていたことを思い出します。

右側中央よりやや下が山手風呂、その上部に蛎瀬1号から下りてくる階段が見えます。

この階段から見えるのがトップページの端島です。

 

 

高島半世紀の記憶から昭和61年の蛎瀬坑

 

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閉山の年ですね。火災で焼けた発進所が立て直されています。

この建物だけは、ごみ処理施設として今も残されています。

 

 

最後の写真は同級生の撮影

 

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良い作品でしょう。

現在Jリーグオフィシャルフォトグラファー・日本写真家ユニオン正会員

プロカメラマン山崎政幸氏の若かりし頃の作品です。

彼の作品はこちらでご覧頂けます。

http://www.nagasaki365.com/profile/?userid=25

 

こちらはデータが重いので開くのに時間が掛かりますが、是非ご覧ください。

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