1907年(明治40年)7月13日 二子第一斜坑、第二斜坑 中ノ島鉱区をめざし7ヵ年計画で開削着手

大正2年1月26日 5年半で18尺層に着炭(第一第二斜坑共に833m) 昭和61年の閉山まで運用

 

高島町の足跡 二子坑(明治44年)

 

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煙を上げている煙突の下に見えるのが、ボイラーと巻揚機の建屋でしょう。

炭鉱の象徴的存在である櫓は、斜坑には必要ないんですね~

今まで気にとめたこともなかったです。

護岸は天川のようですね。

南西からのうねりが入っているように見えます。

中央の和船は撮影者を岩礁に降ろして、待機しているところでしょうか?

 

 

高島町の足跡 下二子より上二子、高島を眺む(明治末期~大正初期)

 

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この写真では、まだ上二子・下二子間も埋め立ては始まっていませんね。

いや、中央のの護岸は下二子の拡張工事でしょうから

上二子へ向けての埋立てと考えても良いのかもしれません。

両島間の連絡路は、木組みで設置されているだけのようです。

干潮時には浅瀬を歩いて渡れたと覗えます。

高島の埋立ての変遷で紹介したように両島間の埋め立ては明治年間に行われていますから

明治末期の写真でしょう。

二子斜坑の開削は明治40年ですから、その前後の撮影ではないでしょうか?

その後二子斜坑開削に伴い出るボタで

上二子島と下二子島間の埋め立てが行われたのでしょう。

 

 

高島町の足跡 上二子より高島を眺む(昭和12年)

 

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高島の埋立ての変遷にコメントをくださったマロンさんとの遣り取りの中

不確かな妄想を並べましたが、集合住宅であることは間違いないようです。

3階建てのように見えると語っていましたが、この建物は2階建ですね。

 

 

高島半世紀の記憶 石炭積出し(昭和23年頃)

 

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下二子からの積み出し風景です。

 

 

同じく高島半世紀の記憶 石炭積出し(昭和24年頃)

 

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一年の間に、積出し桟橋の先にクレーンが施設されています。

23年写真右端のバラック小屋の場所に、中央建屋より大きな建屋が建設されています。

戦後復興期いち早く、凄まじい勢いで近代化が進められていたと想像しています。

二本の煙突は明治に建てられたままのものでしょうね。

炭車軌道・貯木場・貯炭場、他の施設に至っては、もう何が何やら(笑)

炭鉱施設に関しては不勉強で申し訳ないです。