高島炭鉱の歴史の中で、私が興味を掻き立てられるのが広磯です。

高島古地図で書いたように、現在の消防署から旧焼却場あたりまでの海岸線が広磯だと思われます。

 

この広磯坑、安政2年(1855年)鍋島藩の出炭量と坑夫数調査(推計)では

約230人の人力で14.208トンを出炭していて、当時の高島では最大規模の炭坑です。

 

 

高島町政三十年の歩み 上二子より権現山を眺む 明治末期ごろと思われる

 

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この海岸が広磯ですが、写真解説は間違っていると思います。

上二子からこのように見えるはずがありません。

金堀ノ鼻の西側先端寄りが撮影位置でないと辻褄が合わないと思います。

撮影時期も明治34年以前でしょう。

 

注目したいのは海岸線より数メートルから十数メートル上の自然の地形とは思えぬ箇所

拡大してみます。

 

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明らかにボタの投棄跡ですね。

しかも何カ所も!

坑道口は見えませんが、幾つもの坑口の存在が感じられます。

藩営炭鉱か民営炭鉱なのかの資料は残されていませんし

採炭方法も判りませんが、原始的なタヌキ掘りではなく

柱房式に近い採炭方法だったと想像しています。

 

ボタの上面が一定のレベルで慣らされているように見えます。

蛎瀬街道整備のために、かつて出たボタも利用していたのではないでしょうか?

 

 

高島町政三十年の歩み 蛎瀬街道(昭和28年頃)蛎瀬立坑開坑操業に伴う運搬風景

高島町の足跡には蛎瀬道路(明治34年)蛎瀬立坑開坑操業に伴う運搬風景とあります。

明治34年が正しいと思います。

 

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高島半世紀の記憶より蛎瀬街道(昭和26年頃)

 

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高島町政三十年の歩み

昭和47年4月30日に西海岸公園グランドが完成しているので、それ以降の撮影でしょう。

 

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1枚目の写真から14年後の明治2年(1869年)11月

鍋島藩は立坑開発にともない深堀藩の藩営炭鉱と民営炭鉱に閉山命令を出します。

代償として①深堀藩に周辺諸島開発許可と3万円の開坑資金

②民営炭坑主8人に計15.080円の補償金

③完済は明治8年、工部省ヨリ

以後、深堀藩の武士達は明治23年まで香焼島、沖ノ島、伊王島、端島、二子島、中ノ島等を開発

閉山命令対象の民営炭鉱8鉱

坑主は貞五郎、八百蔵、彦次郎、田右衛門、久次郎、乙松、庄市、亀作の8人

〈庄市〉金堀氏ナシ脈を採炭「此者ハ初メ中山ノ旧坑ヲ稼キ大利ヲ得、

此金凡千円并他借二千円程ヲ資金トシテ此氏ナシ坑開坑、水モ汲出シ出炭後三日程ニテ取上タケリ」

〈彦次郎〉中山三尺旧炭線を採炭「此旧坑ノ口元ヨリ残炭ヲ掘取ル見込ニテ開業半ケ年ニシテ取上タケル由。

冘水多分ニシテ掘続キ難シト云フ。且右半ケ年間ニ利益ヲ多分得タリト云」

 

また慶応1年(1865年)の高島安保積船仕切高覚帳には、高島積船座と御仕組方とに分れ

高島積船座の方には、次郎吉塊炭、常蔵炭、国太炭、元市炭、今吉炭、貞五郎炭、庄市炭とある。

これは民営炭鉱を示し、御仕組方は藩営炭鉱を示していると思われる。

石炭は座の方が10~100トンくらいずつ、御仕組方が100トンくらいずつ

各々月数回、芸州住栄丸、芸州明神丸、金寿丸、春日丸、住江丸等に積み込まれている。

と記されています。

 

この2つの資料の時間差は、僅か4年ですが

共通する民営炭鉱主は、貞五郎と庄市の2人だけです。

文字通り一山当てて、短期間で荒稼ぎした者もいたでしょうし

逆に、水が出たり事故により資金が尽き手を引いた者もいたでしょう。

山師たちが勝負を掛けた事業だったのかと想像しています。