小さな岩礁で石炭を掘り
ボタで土地を拡げ
天川で護岸を施した明治26年ころの島は
58ページの図を参照すると
東西100m、南北320m程しかありません。
天川(あまかわ)というのは
赤土と石灰を混ぜて石積みの接着剤に使ったものです。
上陸観光時、左岸壁にそれが見えます。
また、コンクリートが崩落した箇所や島の内部でも確認されます。
個人的にはコンクリートより天川の方が耐久性があり
優れた工法なのではないかという気がしています。
120ページ図2 埋立拡張図によると
昭和6年に拡張された埋立地
(ドルフィン桟橋・積込み桟橋・小中学校あたり)以外は
明治40年までの数度にわたる拡張工事で終了しています。
つまり島を囲むコンクリートの内側と
各工期の線上には天川が存在しているはずです。
台風で破壊されては復旧し、木造建築からRC建築へ
護岸も天川の上からコンクリートで固め、
横へ上へと積み重ねた最終形が今も残る島姿です。
東西160m、南北480m
ざっとサッカーフィールド8面分程
その内、鉱業所や学校施設、病院が島の6割以上を占めていましたので、
居住区は残りの4割にも満たない面積です。
想像してみて下さい。
サッカーコート3面に5.000人が生活する空間を。
現代建築の大型マンションではなく
100年~50年以上前に建てられた
日本初期のRC建造物がひしめきあっていました。
多くの建物は渡り廊下で結ばれており
移動が楽に行えるように工夫されています。
空中庭園とオシャレな表現をされることもありますね。
端島の歴史に真摯に向き合い、縁のある人には懐かしく記憶が蘇り、世界遺産になって興味を持った人には、少しでも当時の島民と炭鉱労働者の真実の生活の様子を伝えてくださり、ありがとうございます。
建築物として価値ある集合住宅の100年前の建築に携わった人にも興味を持ちます。
心がこもったブログに感謝です。
これからの更新も楽しみにしています。
ご訪問ありがとうございます。
そして暖かなコメントをありがとうございます。
職業病の右手首・肘の慢性的な腱鞘炎を患っており、1本指打法?(笑)故
更新が遅々として進みませんが、今後も暖かな目で見守って頂ければ幸いです。